檸檬を読む

現在大学の授業で扱っている梶井基次郎檸檬』を、より理解を深めやすくするために読む。高校時代にもこの作品を学習したが、今回はより専門性の高い大学での授業の題材ということで、その分得られるものへの期待も大きい。

 

 

 

 

檸檬梶井基次郎

「えたいの知れない不吉な塊が、私の心を終始圧えつけていた。」という一文からこの物語が始まる。「えたいの知れない不吉な塊」は、焦燥や嫌悪と似たもので、二日酔いのように現れる時期があるらしい。それが私を襲う原因は、明白には描かれていない。しかしその「不吉な塊」は、どうやら閑散とした裏通りやビイドロ、おはじき、花火などの安っぽく、みすぼらしいが、しかし美しいものが持つ爽快感によって消え去るようだ。八百屋で、あまり見かけぬ檸檬を購入し、手に持ち、浮かれ調子で、普段なら目にする事さえも躊躇する、百貨店・丸善へと入る。そこで色とりどりの画集を本棚から抜き出し、積み重ね、塔の一番上に檸檬を置いた。檸檬の色彩は、全ての色を吸収し、調和させた。ここで「私」にふと、ある考えが過ぎる。「これをそのままにして、何食わぬ顔で外に出る」というものだ。浮かび上がった考えのそれ通り、「私」は一番上に檸檬を置いた、積み重なった画集(=爆弾)を放置し、丸善を後にし、京極を下っていった。

以上が、この話のあらすじである。

 

 

 

檸檬的治療

私の解釈では、「えたいの知れない不吉な塊」は、いわゆる希死念慮なのではないかと思う。芥川龍之介の言葉を借りて言えば、「ぼんやりした不安」だ。物語の中で「私」は、肺尖カタルや神経衰弱や借金が原因ではない、と言ってはいるが、果たして本当にそうなのだろうか。実際は、自身が逃れられない肺尖カタル、神経衰弱、借金が不安要素となり、神経を蝕み、不吉な塊になってしまったのでは無いか。そして、それはみすぼらしくも美しい、例えばびいどろやおはじき、花火など、今で言うチープなもので少しはマシになるらしい。びいどろやおはじき、花火を説明する時、また昔行くことのあった百貨店を思い出す時に、「私」は色についてよく話している。赤、紫わ青、黄色、琥珀色……。「私」の周囲は、精神状態からすると意外にも色で溢れている。そこから分かるのは、「私」はとても感受性が強いということだ。感受性が強い人間は、見えないものが見え、聞こえない言葉が聞こえる。やがてそれは自身を攻撃し始め、段々と精神が削られてゆくものだ。「私」が「不吉な塊」に押さえつけられているのは、感受性の高さにも原因があるのかもしれない。もう一つ言えることは、「私」には独特の空想癖がある、ということ。「本屋の図鑑を棚から出して平積みし、その一番上に檸檬を置こう!」などという突飛なことを考えたり、物語の序盤でも、裏通りを歩きながら、ここが京都ではなく仙台や長崎であるような錯覚を覚えようとしている。つまり、「私」には奇怪な空想癖があるのだ。ここで考えて欲しいのは、「これは誰しもが白昼夢で見た事のある事象に近いのではないか」ということだ。例えば、しんと静まった授業中の教室で、もし、今大声で叫びながら窓から飛び出したらどうなるんだろう?もし、ホームで電車待ちの列に並んでいる自分が、前の人を押して、線路上に落としたら一体どうなってしまうんだろう?と、現実の範囲内での非現実的な想像した経験はないだろうか?こういった具合に、「考えてはみても実際には実行しないこと」を、檸檬の主人公である「私」は実行したのだ。そしてそれにより、不吉な塊(=自殺願望、希死念慮)も消失している。檸檬とはつまり、一種の鬱寛解物語なのではないか。全て私のこじつけだが、そう思うのであった。