ピンクの蛍光ペン

5月某日、小川洋子のエッセイ、「深き心の底より」をアマゾンにて購入。数日ほどで届く。購入する際、商品説明欄をよく読まなかったので、本の包みを開けたときに漂ってきた、カビ臭さとタンスの奥の匂いが入り交じったような、独特の匂いで、古本であることを知った。それでも、本自体のページ状態は非常に良く、表紙もあまり劣化していなかった。

 

 

 

エッセイを読み進めるうちに、ピンクの蛍光ペンで線を引いている箇所を数個発見した。ペンで印をつけているのは、とりわけ死生観や、母子についてのあり方を書いた文章が多かった。まるで教科書の大事な部分に線を引くのと同じように、ピンクの蛍光ペンが走っていた。私はそれを見て、この線を引いた誰かに思いを馳せた。線を引いた箇所の内容からして、お母さんになりたての女性だったのかもしれない。育児の間にこの本を読み、これはきっと自分が生きる上で役に立つだろう、と思った部分を忘れないよう、近くにあったペンを握り、線を引いたのだろうか。私自身は、本に書き込んだり線を引いたりすることは無い。なんとなく、その本を、作者の言葉の結晶を汚してしまうような気分になるからだ。しかし、古本屋で書き込みだらけの本や、マーカーで律儀に線を引いた痕跡がある本を見るのは、嫌いではない。前の持ち主は、この言葉に、この文章に対してこう思ったのか。ここが大事だと思ったのか、と、機械的に刷られた文字に線を引いたり、自身の意見を書き込んだりした、生身の人間の生身の意識がありありと伝わってくるからだ。(だが、それがいくら気に入った古本でも、それを購入し家に持ち帰ろうとは思わない。特に書き込みがあるとそうだ。自分の読書で持った感想を、その書き込み主の強い意識に引っ張られそうになるためである。)達筆であったり、本人にしか解読できないであろう文字であったり、黄色い蛍光ペン、ピンクの蛍光ペン、赤いボールペン、付箋の痕、多種多様な「先代の意識の名残り」は、私を、過去の世界へと誘ってくれる、切符のようなものだ。

 

 

 

エッセイは、とても面白かった。私は小川洋子先生が大好きなので、それは当然なのだが。今まで読んだエッセイは、「博士の本棚」、「アンネ・フランクの記憶」、「犬のしっぽを撫でながら」、「とにかく散歩いたしましょう」、「カラーひよことコーヒー豆」だ。(こうして列挙すると、少ない。まだまだエッセイはあるので、読みたい気持ちでいっぱいだ。)今回「深き心の底より」を購入するに至ったのは、小川先生の過去の出来事や、さらに言えば幼少時代について知りたいと思ったからだ。ファンとしての好奇心は、どこまでも、留まることを知らないのである。(きっとこの気持ち悪い思考が知れた日には、幻滅されるに違いない。大変申し訳無い気持ちでいっぱいだ。)「深き心の底より」は、私が今まで読んできたどのエッセイよりも、小川先生自身の宗教観についての記述が多かったように思う。幼い頃から身近にあった宗教、医学書、コタツ、図書室、アンネの日記が先生を構成する一部となったのだろうか。

 

 

私たち読者は、エッセイを読んだだけで、その作者の日常をかいまみ、少しだけ近づいたような気になっている。それはただ、こちら側の勝手で乱暴な想像にしか過ぎない。ストーカー的思想とは言い過ぎかもしれないが、近いものだろう。エッセイなんて、作者に流れる日常の、ほんの僅かな時間をかいつまんで書いたものだ。それを読んで、作者の1から10まで知った気になっている私たちは、なんと愚かなのだろう。好きな人の全てを知りたいという、自分勝手なエゴからついついエッセイを読んでしまう。それでも、好きな作家さんの書く、日常に転がるあれこれを読んでいると、「この人も人間なのだな」と、「人間」という人類の最低限の共通点を感じとり、嬉しくなってしまうのがファンの性なのだ。

檸檬を読む

現在大学の授業で扱っている梶井基次郎檸檬』を、より理解を深めやすくするために読む。高校時代にもこの作品を学習したが、今回はより専門性の高い大学での授業の題材ということで、その分得られるものへの期待も大きい。

 

 

 

 

檸檬梶井基次郎

「えたいの知れない不吉な塊が、私の心を終始圧えつけていた。」という一文からこの物語が始まる。「えたいの知れない不吉な塊」は、焦燥や嫌悪と似たもので、二日酔いのように現れる時期があるらしい。それが私を襲う原因は、明白には描かれていない。しかしその「不吉な塊」は、どうやら閑散とした裏通りやビイドロ、おはじき、花火などの安っぽく、みすぼらしいが、しかし美しいものが持つ爽快感によって消え去るようだ。八百屋で、あまり見かけぬ檸檬を購入し、手に持ち、浮かれ調子で、普段なら目にする事さえも躊躇する、百貨店・丸善へと入る。そこで色とりどりの画集を本棚から抜き出し、積み重ね、塔の一番上に檸檬を置いた。檸檬の色彩は、全ての色を吸収し、調和させた。ここで「私」にふと、ある考えが過ぎる。「これをそのままにして、何食わぬ顔で外に出る」というものだ。浮かび上がった考えのそれ通り、「私」は一番上に檸檬を置いた、積み重なった画集(=爆弾)を放置し、丸善を後にし、京極を下っていった。

以上が、この話のあらすじである。

 

 

 

檸檬的治療

私の解釈では、「えたいの知れない不吉な塊」は、いわゆる希死念慮なのではないかと思う。芥川龍之介の言葉を借りて言えば、「ぼんやりした不安」だ。物語の中で「私」は、肺尖カタルや神経衰弱や借金が原因ではない、と言ってはいるが、果たして本当にそうなのだろうか。実際は、自身が逃れられない肺尖カタル、神経衰弱、借金が不安要素となり、神経を蝕み、不吉な塊になってしまったのでは無いか。そして、それはみすぼらしくも美しい、例えばびいどろやおはじき、花火など、今で言うチープなもので少しはマシになるらしい。びいどろやおはじき、花火を説明する時、また昔行くことのあった百貨店を思い出す時に、「私」は色についてよく話している。赤、紫わ青、黄色、琥珀色……。「私」の周囲は、精神状態からすると意外にも色で溢れている。そこから分かるのは、「私」はとても感受性が強いということだ。感受性が強い人間は、見えないものが見え、聞こえない言葉が聞こえる。やがてそれは自身を攻撃し始め、段々と精神が削られてゆくものだ。「私」が「不吉な塊」に押さえつけられているのは、感受性の高さにも原因があるのかもしれない。もう一つ言えることは、「私」には独特の空想癖がある、ということ。「本屋の図鑑を棚から出して平積みし、その一番上に檸檬を置こう!」などという突飛なことを考えたり、物語の序盤でも、裏通りを歩きながら、ここが京都ではなく仙台や長崎であるような錯覚を覚えようとしている。つまり、「私」には奇怪な空想癖があるのだ。ここで考えて欲しいのは、「これは誰しもが白昼夢で見た事のある事象に近いのではないか」ということだ。例えば、しんと静まった授業中の教室で、もし、今大声で叫びながら窓から飛び出したらどうなるんだろう?もし、ホームで電車待ちの列に並んでいる自分が、前の人を押して、線路上に落としたら一体どうなってしまうんだろう?と、現実の範囲内での非現実的な想像した経験はないだろうか?こういった具合に、「考えてはみても実際には実行しないこと」を、檸檬の主人公である「私」は実行したのだ。そしてそれにより、不吉な塊(=自殺願望、希死念慮)も消失している。檸檬とはつまり、一種の鬱寛解物語なのではないか。全て私のこじつけだが、そう思うのであった。